good luck have fun.

140文字に収まらないことや、140文字に収まることを書きます

家の近所には小川が流れていて、数キロメートルに渡ってソメイヨシノが植えられている。この時期になると、美的センスが割合欠損している私からしても、ふと目を奪われるような桜並木を見ることができる。ちょっとしたお花見スポットとしても知られているようで、数駅向こうに住んでいる近隣住人も集まってくるらしい。特に仕事から帰宅の時分、夜になって提灯に照らされたそれは、時間の感覚を奪い去るような存在感がある。

 

川辺に立つ小学生の男の子を母親が撮影している。しばらくじっと立っていた男の子は母親の元に駆け寄り、小さな液晶画面を覗き込んでいる。二人は画面と桜を交互に見ながら、何かを話し込んでいるが、声は聞こえない。男の子は母親のそばを離れず、身体をくねらせている。

 

女子中学生くらいのグループ、5人か6人か、は十分に堪能したのか、今帰ろうとしている。互いの液晶画面を見せ合いながら、ほとんど全員が同時に誰かに何かを話している。耳に入ってきた言葉で唯一意味が捉えられたのは「マジやばいんだけど!」のみだったが、確かにマジやべぇよなと思う。

 

川べりにはビニールシートの上で肩を組み何かを叫んでいるサラリーマン集団の姿が見える。言葉というものは意味の伝達だけではなく、熱狂の共有にも使えるのが強い。適当に酒を持っていってドサクサに紛れて混ざり込んでやろうかと毎年考えながらも、さすがにそこまでのアクションは取れずに今年も過ぎていく。

 

川を渡る橋に差し掛かると、桜をカメラに収めようと様々な電子機器を構えている人が目立つ。こういう時、遠写している人がいると少し困る。シャッターを切られると確実に映り込んでしまう。かといって待っていても、いつ撮影が終わるか分からない。仕方がないので少し背筋を伸ばしコートの襟を立て歯を噛み締め、気怠そうな目で歩く。我ながら阿呆かなと思いながらも、リスクマネジメントは怠らない。

 

人工的に作った歩みで橋を渡ろうとした時、すごく伸びている人が視界の端に入った。どうやら夜空に浮かぶ桜の画を撮りたいと見える。欄干に身体を預け、横向きにしたスマートフォンを両手で持ち、上方に高く掲げている。桜から反射した桃色の光が顔に溶け込んだその人を見て、花見とはつまり収穫祭であることを理解した。直接的に何かをしたわけではない。それでも、一年を過ごしてまた春を迎えた者とそして桜の、双方向の感謝を伝える場ではないのかと、そう思った。

 

四月から通い始めた新しい職場は少し遠い。引っ越してもよかったのだが、ここに残った理由の一つは、きっと今年もこの光景が見たかったのだろう。群衆を背にして家路を辿る。前方の電話ボックスから漏れ出る淡い灯りが道路を照らしている。