good luck have fun.

140文字に収まらないことや、140文字に収まることを書きます

存在が消えるボタン

 ある日セールスマンがやってきて、「押すと存在が消えるボタン、いかがですか?」と言う。彼は赤いボタンがついた薄べったい立方体を両手で大切そうに持っている。「それって、死ぬってこと?」それほど疑問も持たずに、ごく当たり前に興味を惹かれてしまう私。

 

 「死ぬのではなく、消えるのです。あたかも煙のように」

 

 たしかに私はもう生きていることに執着はしていない。消えてしまってもいいと思ってる。でも、健在な肉親を悲しませるのもなんだかなぁと躊躇してしまう。

 

 「この『押すと存在が消えるボタン』のすごいところは、押した人が存在した証やこれまで関わった人の記憶まで丸ごと消えることなのです。そう、あなたが最初から存在しなかったかのように。だから、誰も悲しませることはありませんよ」

 

 さすがにそんな上手い話あるかいと訝しがっていると、「あなたの妹様もこれをお使いになられたのですよ。ですから実績もバッチリです」と得意げなセールスマン。といっても私は一人っ子で妹なんていない。それをその胡散臭いボタンを使って記憶ごと消したと言われても証明しようがないではないか。

 

 「たしかに証明のしようはありませんね。完璧すぎる製品やサービスは掴みどころがないものなのです。あたかも煙のように」

 

 特に上手くもない例えを繰り返され、イラっとしつつも、試しに押してみるのも悪くないかと思い始める。本当に消えてしまうならお金は必要ないし、消えなければ契約不履行で支払わなけばいいのだから。

 

 「ええ、そうですとも。こういうのは思い立ったが吉日、善は急げと言いますからね」

 

 吉日でもなければ善でもないと思うが、押し売り気味にテンプレ台詞を投げつけてくるセールスマンに付き合うのも面倒くさくなってきた。そう思い、ボタンを押してみることに。

 

 一体私は何をしてるのかと思いながら、右手の指を揃えてゆっくりとボタンに手を伸ばす。最期くらいはスタイリッシュにと、中指が最初にボタンに触れるように少し弓なりに反らす。指先が赤いボタンに触れる。ひんやりとした心地よい冷たさ。誰の気配も感じることはなかった。私は意志と重力、そして生きる力のすべてを込めて、ゆっくりとボタンを押し込む。