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140文字に収まらないことや、140文字に収まることを書きます

感想文「空港にて」

起承転結のない小説の短編集である。

 

空港にて (文春文庫)

空港にて (文春文庫)

 

※作品内容を含みます。


村上龍の小説が好きだ。

 

私の読書量は年間5〜6冊程度と大変貧弱であるが、龍さんの小説はおそらく8割9割は読んでいる。フルネームだと呼び捨てで問題ない気がするのに、名前はさん付けをしないと失礼にあたる気がするのは不思議である。

 

龍さんの小説、および作品全般は説教臭いと言われることが多く、それで敬遠されることもあるようだ。でも私はあれを説教と思ったことが一度もなく、初めてそのような感想を目にした時、なるほどそういう捉え方もあるのか、と驚いた記憶がある。

 

ではあれが説教ではなくて何なのだと言われると、それは応援であったり激励であったり、あるいは鼓舞と表現する方がしっくりとくる。

 

マイクロフォンの中から ガンバレって言っている

聞こえてほしい あなたにも ガンバレ

引用:人にやさしく -The Blue Hearts-

 

受け止め方としてはブルーハーツを聴いた時とそう変わらない。私にエネルギーを与えてくれる存在であり、どうにも重力の存在が負担に感じられるような状況に陥った際に、お世話になってきた恩人たちの一人である。

 

だから、五分後の世界然り、愛と幻想のファシズム然り、説教パートが出てくると、私は待ってましたとばかりに椅子を蹴り飛ばして立ち上がってしまう、自分で説教パートと言ってしまっている。

 

冒頭で本作は短編集であると書いた。短編集と言えば、以前に珈琲時間という漫画の感想を書いたことがある。あちらは映画のワンシーンを切り取ったような、やや小洒落た話が多い。それに対し、こちらは本当にどこにでもあるただの日常風景だ。原題は「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」だったが、文庫化にあたり改題されたようだ。これは原題の方が適切なように思う。惜しい。

 

舞台はコンビニ、居酒屋、公園、駅前、空港、……こう書くとゆるやかに内から外への流れがあったのだなと今更気づいた、やはり記憶や思考を可視化・言語化することには意義がある。とにかく、一般人のなんてことのない生活、でしかない。

 

主人公たちの共通点は、小さな希望を胸に、静かに胎動しているところにある。映画の音響技師になるためにアメリカに渡るであるとか、絵の勉強のためにフランスに行くだとかのわかりやすいものもあれば、他者の私から見るとそれは希望というよりもむしろ絶望や虚無という言葉が適切なのではないかと疑問に思えるものもある。しかし、つまりはそういうことなのだろう。希望なんてものは、個人が信じるに値するならば何でも構わないというわけだ。

 

彼らはどこか清々しく見える。他の登場人物と所作が異なるとか、硬い芯を感じさせるような主張をするとか、そんな描写は特にない。むしろ自身や家庭に問題を抱え、陰気な様相の方が目立つ。それでもただ淡々と、日常を斬り落として希望を萌芽させようとする覚悟には、たしかな推進力が感じられて、気持ちがいい。

 

 

しかし、読み始めてすぐに一つの問題、もしくは不安に思い至る。説教者の不在である。

 

本作は一人称で書かれてはいるが、人も環境も景色もほとんど同じように描写されていて、一般的な意味での人間は登場しない、それは主人公も同様である。そんな無機物のような主人公がいきなり読者に向けて説教を始めるわけにはいかないのだ。

 

別に全ての小説に説教を入れなくてもと思うかもしれないが、そんなわけにはいかない、あれがないことには私たちの村上龍は始まらないからだ。では一体どうすればいいのか、著者も読者の期待を存分にわかっているのだろう、作品内でいくつかの解決策が提示される。スタンダードなものから虚を突いてくるものまであるが、特に気に入ったものを記したい。それはつまり、唐突に、何の前触れもなく誰かが説教を始めるのだ。

 

本作の一編である、居酒屋にて、のワンシーンである。主人公が飲んでいる店の何処かで誰かが叫びを上げる。

 

「だからお前は現実を見ていないって言われるんだよ。現実を見るっていうのは、それこそ、期待とか希望的観測とか、先入観を除外して、ありのままに現実を見るっていうことで、これほどむずかしいことはないんだけど、そんなことに誰も気づいてないんだ。お前の作品論なんか誰も聞きたくないし、お前は誰からも期待されていないっていう現実をまず直視すべきだろう。違うか」
引用:空港にて P36

 

このオッサン(オッサンかどうかもわからない)が何者なのかは一切書かれない。年齢や容姿・風貌にも触れられない。誰に対して話しているのかもわからない。叫んだ内容も話の前後と繋がっていない。単に飛び道具の説教役として登場し、役目を終えると舞台から捌ける。しかもこの説教、1度だけではなく2度3度と微妙に形を変えて登場する。そして、居酒屋にて、でただ一人「台詞」文体を用いるのが名もなきオッサンなのだ。

 

一見強引すぎるカットイン演出にも思える。しかし、私にとってはこの名もなきオッサンの叫びこそがサビであり、サビがあるからこそ後に続くBメロCメロも一層味わい深いものになる。事実、Aメロまでは若干眠たくなるような文章とも感じていたが、サビを堪能した後はこの無機質な短い世界に私は没入してしまった。オッサンが突如主人公に取って代わり、サビだけ歌って帰る短編小説、ファンサービス精神が旺盛すぎる。

 

2019年2月28日 自宅にて