長時間勤務が度を過ぎて吐きそうである。
世間のビッグウェーブに乗り我が勤め先も全面テレワークに移行したはいいものの、終電というラストガーディアンが消失したことで、かつて私だったはずの存在はやがて無限労働マシーンと化していた。
本当に大切なものは失ってみて初めて気づくという太古の教えがあるが、終電様(メシア)の存在がここまで大きいものだとは思いもしなかった。
24時過ぎの東京メトロ。死んだ魚の目のような目をしながらスマートフォンを眺める(焦点は3メートル先くらいで結ばれている)疲労困ぱいの私と、アルコールがたっぷり染み込んだ身体でハイテンションアピールを繰り広げるサラリーマンや学生とのコントラストも、もはや懐かしい。
しかしよく考えてみればこれは当たり前の話なのだ。
そもそも、「よし、仕事終わった!」と思って帰宅の途についた日が、果たしてこれまであっただろうか。(反語)
いや、ない。(強調表現終わり)
終わらない、終わりなんてない。いつだってやり残しの連続で紡がれる円環の業(カルマ)、それが我々が対峙してきたザ・仕事ではなかったのか(なんでこんな書き方なん?)。
プライベートとパブリックの境界線が消失した世界において、社会人が備えるべき必須スキルは放置する力、すなわち責任感の欠如である(TSUKARETA!)。